成長 早熟
衰え 遅め
初期値
限界値
総合評価 B
初期値がかなり高く、制球とカーブ以外は成長分もある。入団して僅か2年で成長のピークに到達してしまうが衰えが遅いので30歳くらいまでは能力が伸び続けてくれる。回復Cの先発完投型なのでイニングイーターとして先発ローテーションを張ってくれるだろう…
が、やはり右投手なので残せる成績は結構微妙。最後まで投げられるので野手陣が優秀なら勝利数はかなり稼げるが、防御率はよくて3点台が良いところで基本は4点台で収束してしまう。
それと今更それを言うのかと思われてもしょうがないのだが、やはり入団年齢の高さがネック。
自身の能力の高さで成績が残せるのは4年くらいなので通算でも心許ない。
個人的に好きな選手なので悲しいが別に最優先で雇うべき選手ではない。監督のほうが活躍できると思われる。
小ネタ 選手紹介
1950年代後半の巨人のエースでありMVP二度受賞や監督として幾たびもリーグ優勝、日本一を達成するなど巨人において偉大な成績を残した野球人。
アマチュア時代からも名を馳せた選手であり甲子園出場こそなかったが幾たびも県上位に導くほどの快速球投手であり、高校卒業は慶応義塾大学へ進学した。藤田元司は1931年生まれだが戦争だったり、改革の影響で今の常識的な年齢と多少ずれている。2歳の年の差がありながらも佐々木信也と同期であったりする。(若い頃はかなりやんちゃしていたらしいのでその悪影響ももしかしたら…)
大学野球でもスター投手として活躍していたが、その本人の成績に対してチーム成績は報われず当時の世論からは「悲運のエース」と呼ばれた。大学卒業した後は日本石油に入社。社会人野球でも活躍し、都市対抗野球におけるMVP相当の橋戸賞に選出されるなど大活躍した。
1957年に巨人に入団。1年目から60試合登板18先発という酷使ながら17勝13敗、防2.48で新人王
1958年は58試合 24完投 36先発 359回 29勝13敗 防1.53でMVP受賞
1959年は55試合 24完投 35先発 330回 27勝11敗 防1.83で2年連続MVPと
巨人の大黒柱として君臨。
同年に開催された天覧試合の巨人側の先発も藤田元司であり完投勝利を記録するなど
滅茶苦茶歴史に名を残している。
しかしながら↑に挙げた年は全て巨人が優勝しているが日本一にはなっていない。
1957年と1958年は西鉄ライオンズが誇る強力打線となんか稲尾和久とかいうよくわかんない若造のせいで敗戦。1959年は南海ホークスとかいう球団の杉浦忠とかいう若造に4連投4連勝とかなんかよくわかんないことをやられて日本一になり損ねるという不運に見舞われており
大学時代の「悲運のエース」のフラグを回収してしまう。
翌年以降はそれまでの酷使が祟ってしまい以前のようなイニングを喰うことはできなくなったがそれでも安定した投球でチームに貢献。1964年に現役を引退した。
指導者になってからは巨人、大洋でコーチを務めたあと巨人の監督に2度就任。
1期目は長嶋茂雄の後任だったために人気面で長嶋に劣り日本一になったにも関わらず正当な評価をされなかった。選手時代に同僚だった廣岡達朗が監督を務める西武ライオンズに1983年日本シリーズで激突。結果敗戦してしまい助監督だった王貞治に跡を継がせた。
2期目は自分の後任であった王貞治の直後の監督として復帰。当時伸び悩んでいた斎藤雅樹を熱心に育成し、彼を筆頭に桑田真澄、槙原寛己を中心に投手陣を整備し巨人を再び常勝軍団に。1990年には先述のローテに宮本和知、香田勲男、木田優夫の6人ローテを作り上げチームを優勝に。この年の巨人投手陣を歴代最強先発ローテと位置付ける人が多い。なお日本シリーズ
1992年を最後に監督を辞任。その後は解説者を務め、1996年に野球殿堂入りを果たした。
2006年に心不全で死去。享年74
多くの野球人から選手時代も監督時代も高く評価されている数少ない選手であり
特に投手出身者では最高の監督といわれることが多く、野村克也も
「投手監督はカス、藤田さんを除いて(適当な意訳)」とかなりの高評価を受けている。
やきゅつく2003で活躍する選手(主に巨人出身者)は藤田政権の中心選手が数多く存在するので
その面でもかなりの影響力を持っていたといえる。名前を上げると
斎藤雅樹(今作最強右腕候補)、桑田真澄、槙原寛己、江川卓(今作最強右腕候補)、香田勲男、
山倉和博、村田真一、大久保博元、鹿取義隆、川相昌弘、吉村禎章、西本聖(超優秀)、原辰徳
中畑清
どうか彼と同じくらいの名将と呼べるような投手監督が出てきて欲しいものである。